宇治茶について
宇治茶の歴史と文化
宇治茶栽培の始まりは、13世紀初めの鎌倉時代といわれ、土質、地形等自然条件に恵まれていたことから、宇治で急速に栽培が拡大した。
一方、14世紀半ばには喫茶の習慣が広がり、宇治茶は一級品の贈答品とされ、茶の産地を飲み当てる「闘茶」も行われた。
やがて、喫茶と料理が組み合わされ、座敷飾りや茶道具を鑑賞する「茶の湯」が登場し、商人等にも広まっていった。
15世紀には、宇治は京都の栂尾と並び第一の産地と呼ばれるようになった。宇治市に現存している「奥の山」茶園(「宇治七名園」の一つ)は、室町時代以降の茶畑を継承しているものである。
茶山栂尾の碑
栂尾は鎌倉、室町時代を通じて茶山と称され、宇治茶発祥の地とされている。
16世紀後半になると、宇治で「覆い下栽培」と呼ばれる栽培法が開発され、鮮やかで、濃緑色のあるうまみの強い茶が生まれ、日本随一の評価を得た。日本特有の抹茶の出現である。
千利休が大成した「茶の湯」は、この宇治茶(抹茶)を第一とし、その品質向上を求めた。また、「茶の湯」の舞台である茶室は、茶や料理で客をもてなすために造られた建築物であり、今も千利休が造ったとされる茶室「妙喜庵待庵」(京都府大山崎町)や三千家(表千家、裏千家、武者小路千家)の茶室や茶園など、文化的価値の高い資産群が残されている。
17世紀初めに、徳川三代将軍家光は、宇治上林家に命じて、朝廷献上茶と将軍家直用の高級茶を作らせ、江戸までの新茶の運搬を「お茶壺道中」として制度化し、以来250年間続けられた。宇治の茶師たちは、この「お茶壺道中」の中核的な担い手として携わり、日本茶文化を長く支え続けた。宇治市宇治橋通りには、茶師の住宅や製造場の街並みが残り、往時を偲ばせる。
永谷宗円生家
江戸時代になると、17世紀初めに宇治萬福寺の僧隠元が釜炒りの煎じ茶(揉み製)を日本に伝えた。また、江戸時代中期(18世紀中頃)には、宇治田原湯屋谷の永谷宗圓により、蒸した茶の新芽を焙炉の上で揉み乾燥させる、画期的な「宇治製法(青製煎茶法)」が生み出された。
この製法によるお茶は、まず江戸で売り出され評判になりその後、全国各地で好評を博すとともに、宇治製法も、全国の産地に広められ、現在も日本茶製法の主流となっている。
さらに、宇治では、江戸時代後期に、覆い下栽培の茶葉を宇治製法で仕上げる「玉露」が生み出され、宇治製法で作られる煎茶や玉露を飲む茶会が京都を中心に文人たちに広がり、煎茶専用の茶席が創造されていった。
幕末から明治時代(19世紀)になると、宇治茶は輸出産業の一翼を担って発展し、輸出振興を目指した高品質茶の生産、供給体制が整えられていった。京都山城地域では、和束町に加えて、南山城村においても茶畑が開墾され、地形を生かした「山なり開墾」と呼ばれる優れた茶園と茶畑景観が形成された。
大雄宝殿
萬福寺の本堂であり、最大の伽藍。日本では唯一最大のチーク材を使った歴史的建造物として、大変重要かつ貴重なものです。
明治後期になると、宇治茶販売は、国内市場開拓へと展開し、通信販売などにより、一般家庭に生活文化の茶を根付かせるとともに、他産地の追随を許さない加工、ブレンド技術を駆使して、多様で高品質な茶の生産を行い、宇治茶の名声はさらに確固としたものになっていった。